石井十次は、慶応元年(1865年)、宮崎県高鍋に生まれました。明治15年(17歳)、岡山県の医学校に入学し、医者をめざします。
明治20年(21歳)、ある村の診療所で実習をしている時、貧しい母親から男児1人を預かり、それが児童福祉・教育事業へのきっかけになります。
明治22年、児童福祉・教育に専心する決意をし、医書を焼き、医学校を退学してしまいます。石井十次23歳の時です。
明治24年、名古屋地方を襲った濃尾地震による被災児93人を救済、明治39年には、東北地方一帯の冷害による被災児救済により、施設児童数は1,200名に達します。施設内に幼稚園、学校も作り、一貫した養育・教育を行いました。
明治27年頃から石井十次は、フランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーの「エミール」の感化を受け、宮崎県西都市茶臼原で「自然・労作」教育をやろうと決意します。そして、岡山から宮崎へ大移住をします。塾舎、学校などもことごとく解体し、船で運びました。
石井十次は、大正3年、志なかばにして倒れました。49歳でした。
石井記念友愛社は、石井十次の愛や理念を継承し、その夢とロマンを追い求めます。保育園は、のゆり保育園、ひかり保育園(西都市)、やまばと保育園・にっしん保育園(高鍋町)、こひつじ保育園(宮崎市)を経営しています。
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