慈眼寺歴史への案内
慈眼寺は、鎌倉時代の末期、法印定音(じょうおん)によって草創されました。
 諸国巡錫の途上にあった定音がたまたまこの地にたちいたったおり、里人によって滝ケ谷戸崖の中腹から、仏天の像が発見さ れたことを知り、この像が“降三世明王(こうさんぜみょうおう)”であったことから、定音が里人より譲り受け、 小宇を建立し、この像を祀りました。
 およそ670余年前の、徳治元年(1306)のことです。
 ところがその後、この附近を通る里人に、 しばしばわざわいが生じたことから、この像をふたたび地中に修め、代わりの像を刻んで祀りました。
  里人たちの尊信はあつく、また定音の徳を慕ってくる者も、日をおって多くなり、仏堂 (修験場)に改築したと伝えられています。
 法印定音は、正中元年(1324)8月6日に遷化しました。
 慈眼寺が草創された頃の瀬田村は、武蔵国荏原郡に属し、武蔵野の一角とはいえ、無人の原野ではなく、相当な生産力のある中世地方の素朴な文化をもつ地域でした。この地方文化に最も貢献したのが、修験行者であり、仏徒であったことはだれしもが認めるところで、彼らの活躍は民衆生活の隅 隅にまで浸透しました。
 修験道の信仰修業の系譜は、役の小角を祖とする仏教の一派で、その法系の多くは 真言に基づいています。鎌倉時代から室町時代にかけて、三宝院流(真言)、聖護院流(天台)の二流が繁栄し、武蔵国にも修験道場が、数多く開設されました。    
本堂内陣全景

本堂内陣全景
 世田谷区内の真言、天台に縁故を有する寺院で、修験行者の先蹤史料のない寺院は 皆無といっても過言ではなく、当慈眼寺も その一例といえましょう。
 天文二年(1533)郷士・長崎四郎左衛門 の信施を得て、法印栄音(えいおん)が、崖の上の現在地に堂宇を遷し、大日如来を本尊として安置しました。
「本堂東向ニテ、七問ニ五間ナリ、本尊ハ大日如来ヲ安ス。坐像ニテ、長二尺五六 寸ハカリナリ。門。堂ノ正面ニアリ。両柱ノ間九尺。」
  ―『新編武蔵風土記稿』―
釈迦堂全景

釈迦堂全景
喜楽山教令院と号し、開山を権大僧都法印定音、 開基を郷士・長崎四郎左衛門、栄音みずからを二世として、真言宗の寺院となったのは、 このおりのことと推察されます。
  当寺は長崎家の祈願寺にあてられ、本尊の胎内には、 「長崎家の系図」が納められていると伝えられています。
  真言宗の『本末一派寺院明細帳』によりますと 「開山源長僧都」と記されていますが、『名残常盤記』(鈴木堅次郎著)には、 元和元年(1615)源長僧都によって第二の中興開山がなされ、 長崎重勝が中興開基と明記されています。 この鈴木説が年代的にみて正鵠を得ているようです。
 寺社の建立、中興は、時の領主による攻防軍備に利用された面が多く、 世田谷区内の寺社の配置を一見すると、 世田谷城を中心に実にたくみに配置されています。北条、後北条、吉良家等の遺臣たちが次々とこの地に土着していつの日にか再び立ち上がる・・・・・・といった夢をもちつづけていたという意図的なものが判然としています。 もちろん、宗派をこえた連繋を保つために、 法縁によるつながり、開基の血縁によるつながりに重点がおかれたことはいうまでもありません。
 
源長僧都によって、第二の中興がなされた元和元年は、 豊臣家が滅亡した年であり、 当慈眼寺も連繋の一端をになっていた・・・・・・ と考えられます。
  しかし、戦国期は徳川幕府の樹立によって終止符がうたれ、 いまは古地図の上にその「夢の名残りの跡」をとどめているにすぎません。 このように古い歴史を刻んできた慈眼寺は、 法印定音がこの地に法燈をともしていらい、 670余年、常に法燈を絶やすことなく、由緒ある古刹として今日にいたっています。
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