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園長のコラム



  2023年5〜11月 園長コラム
Date: 2023-12-05 (Tue)

2023.11  【かけがえのない私】
 

〇運動会では保護者の皆様の温かい見守りのなか、一人ひとりの子どもが輝いて、成長を喜び合う時となりました。皆様のご協力に感謝いたします。

〇日本は、先進国の中で健康の水準は第1位ですが、幸福感は30か国中の下から2番目だそうです。自分のできる事やできない事などすべてを含めて、自分のことをかけがえのない価値ある存在と思える『自
己肯定感』が育まれていくよう願います。

〇『自己肯定感』は、自分で持とうとして持てるものではなく、目の前にいる人(母、父、保育者等々)の反応を鏡にして、自分の価値や存在意義を確認する
のだと言われています。大人もそうですよね。「いい子だね」「がんばっているね」「〜なところがすごいね」「ありがとう」等、子どもに繰り返され
る温かい言葉とまなざしで、子どもの『自己肯定感』を育てていきましょう。


2023.10  【赤ちゃんの勉強】
〇動物の赤ちゃんは、生まれたその日に自分の足で立ったり歩いたりする種類が多いのに、人間の赤ちゃんは歩行するまでになぜ1年くらいかかるのでしょう。ある父と子の会話を紹介しますね。

 父 :赤ちゃんは、赤ちゃんの時に勉強することがたくさんあるんだよ。
 ゆか:赤ちゃんの勉強?
 父 :赤ちゃんの勉強は、周りの人にたくさんお世話してもらうことなんだ。たくさんお世話してもらって、『みんなが大切にしてくれてる。生まれてきてよかった』ってわかる事なんだ。由香ちゃんも赤ちゃんの時には、おなかがすくと泣いておっ          ぱいもらって、オムツがぬれると泣いて替えてもらって、抱っこしてほしい時にも泣いて抱っこしてもらって…
 ゆか:赤ちゃんの勉強たくさんしたんだ!!    父:あったり〜!!

〇赤ちゃんから幼児になっても、この勉強は続きます。「お母さん私のこと、本当に好きかなぁ」「僕の気持ちわかってほしいよ…」子どもは誰でも不安になったり寂しくなったりすると、親の愛を確かめたくて、やんちゃを言ったり、強く甘えたりする時がありますね。そんな時はよけいに、ぎゅっと抱きしめながら「大好きだよ」と伝えましょう。もちろんふだんから伝えると、子どもは安心感で満たされ、自分の感情をコントロールできるようになり、困難な時にも立ち向かう強さを持つようになるのです。


2023.9   【アリエルになりたい】 

〇9月1日は、今年のプール遊び最終日でした。夏の間、子ども達はプール遊びを通してぐんと成長します。
〇青組(4歳児)のプール遊びで、水に顔をつけてみようという活動の時Aちゃんは慎重にそっと鼻の先だけ水につけます。その後、いくつかの『〜をしてみよう!』を子
どもそれぞれの姿でチャレンジして楽しんだ後、自由に遊ぶ時間になりました。フープをくぐったり、水を掛け合ったり、ダイナミックに水にダイブして伏し浮きをしたりして、みんなの笑顔が
はじけました。Aちゃんは、上にぴょんと飛び上がっては顔を水面に近づけちょっとつけてみる、またぴょん⇒顔つけ、ぴょん⇒顔つけ、を真剣な表情でひたすら繰り返していました。はじめは鼻の先だけしか
つけられなかったのが、頬のあたり、目の周りまで、だんだん水につかる部分が広がってきました。Aちゃんは、友達Bちゃんのように、水にダイナミックに飛び込むイメージなのかな?真剣に繰り
返すAちゃんの姿は、ひたむきで真剣そのもの、心があつくなりました。お母さんによるとAちゃんは『アリエルになりたい』のだそうです。プールの最終日、Aちゃんはぴょんと飛び上がった
後、水面に浮かべたフープの下を体をまっすぐにのばしてもぐり、進んでいきました!
〇子ども達は『〜のような自分になりたい』と自分で決めて取組む時に『今度は〜したらできるだろう』と見通しも立てるようになり、ぐんぐん成長していくのですね。

〇「ところで、私はどんな自分になりたいのだろう?」と考えた時、私もなりたい姿に向かって小さなチャレンジを続けていきたいなと思いました。



2023.8  【私の口から出る言葉は…】

〇職員事務会で、こんな記事を紹介しました。

“私たちはどのようにしたら、愛を子どもたちに伝えることができるのでしょう。水を飲むのが体に良いとよく言われますが、こんな話が友人たちと話題になりました。ある人がどんどん若々しくなるので、どうしたのかと尋ねたら、毎日水を飲むときに「私をきれいにしてくれてありがとう」と感謝して飲む。これを続けていたら、体調も良く、周りの人に若々しくなったと言われるようになったと。その話からある水の実験をした本があり、そこにそれを証明する事実が
書かれていると教えてくれた仲間がいました。水に「ありがとう」「きれい」「感謝」という言葉を示し続け、また美しい音楽を聞かせたりすると水の結晶がとても美しい形や色になり、逆に暴言を示すと結
晶の形が崩れ、色も黒く濁るのです。この実験から、前者の若々しくなった方の意味がわかりますね。実際には微生物などが関係しているようですが、生きている私たちも、こうした環境の影響を大きく受
けるのだと思います。私たちの口から出る言葉はどうでしょう?温かく、優しい言葉でしょうか?大きな声や強い口調は望ましくないことはわかりますね。“(キリスト教保育8月号より)

〇自分の言動には、なかなか気づきにくいお互いかもしれませんね。子どもたちが『私(ぼく)は、愛されている。大切な存在』と感じられる言葉や関わりを、心がけていきたいですね。



2023.7  【ぐんぐん育っています!】

〇梅雨明け間近、いよいよ夏本番ですね。子どもたちは裸足で園庭に出て遊んでいます。水を出して泥団子を作ったりトンネルを作ったり、全身で砂と土と水の感触を楽しんでいるようです。熱中症などに十分に注意しながら、子どもたちを見守っていきたいと思います。

〇各クラスで栽培している夏野菜がぐんぐん成長して、少しずつ収穫しています。毎日水やりをしたり、「花が咲いてるよ」「小さい実がついてる!」と成長の様子を見たりしてきた野菜の味は格別! 先日、収穫してさっとゆでたインゲン豆を検食のために事務所に持ってきた男の子が、「これ、おいしいよ!」ととびきりの笑顔で渡してくれたそうです。

〇野菜は旬の時期に一番栄養価が高く、その時期に人間の体に必要な栄養素が詰まっているそうです。自分たちで育て収穫した野菜は、さらに心も豊かに知的な興味関心も広がりますね。夏は食欲が低下しがちですが、夏野菜を感謝して
おいしくいただき、夏を元気に過ごしたいですね。



2023.6. 【一緒に過ごす ・ 一緒に食べる】
5 月に実施した3年ぶりの保育参観は、大人も子どもも笑顔があふれていました。お忙しい中でのご参加、ありがとうございました。〇多くの保護者さんから「子どもが保育園で元気に楽しく過ごしているのがわかり嬉しかった」「一緒に
遊んで楽しかった」「友達とのやり取りを見られてよかった」等の感想をたくさんいただきました。調理担当者の希望もあり、給食お味見会も同日に行いました。「家では食べない野菜をモリモリ食べて
びっくり!」「つぎつぎおかわりするわが子や友達にびっくり!」「薄味でおいしかった」「もらったレシピを家でも作ったら喜んで食べて嬉しい」という声が多数寄せられました。
〇保護者さんと一緒に行ったミニ運動会や好きな遊び、花や野菜を植える活動、食事は、各クラスとも子どもたちがキラキラいきいきした表情で、張り切っていました。大好きなお父さんお母さんが一緒
にしてくれる、見ていてくれる、応援してくれる、…、このような関わりやつながりの中で、子どもたちの安心や自分は大切にされているという喜びを持つことができるのですね。それらがこどもの健
全は成長になくてはならないものだと再認識しました。ご協力に感謝します。
6月に実施予定の赤組についても、どうぞお楽しみに。



2023.5   【お は よ う の 輪】
▼入園・進級から1か月が経過し、クラスのカラー帽子がそれぞれの子どもになじんできました。クラスの保育記録の中から、子ども達の姿を少し紹介します。今回は、3歳児桃組の記録から抜粋です。
☆友達が登園してくると、「〇〇君、おはよう」と声をかけるA君。言われた子どもは「A君おはよう」と挨拶を返す。それを聞いていた子ども達も「おはよう」と言い出し「おはよう」の輪が広がる。登園した時には元気がない子どもも、友達から「おはよう」と言われると気分が良くなり、1日のスタートが気持ち良く始められているように感じる。保育者も一緒に挨拶をして、気持ちよく1日を始められるように支えていきたい。

☆「お祈りしたいことがある人?」と聞くとBちゃんが手を上げて「いえすさま すき」と小さな声で答えた。Bちゃんが初めて皆の前で手を上げて気持ちを伝えてくれたことが嬉しくて「わかったよ。先生伝えるね」と声をかけた。……他にも自分の気持ちを言う子どももいれば、休んでいる友達の事をお祈りしたいという子どももいた。保育者は、子どもたちの思いをそのまま祈り、子どもたちがどんなことを祈っても、イエス様は聴いてくれる、パワーをくれる、心配し
てくれると感じられるように言葉を補い、礼拝が大切な時間になるように心掛けていく。

▼友達同士や保育者との温かい関わりの中で、子どもたちは日々成長しています。気候の良い5月は、散歩に出かける絶好の季節。身近な自然に触れる機会も多いことでしょう。その中で、子どもたちは何をどのように感じ、吸収していくのでしょうか。とても楽しみですね。



  疲れ果ててしまわないように 〜いとしきアルデバランへ〜
Date: 2022-03-02 (Wed)
▼現在、放映されているNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』の主題歌は、AIさんがうたう「アルデバラン」です。アルデバランAldebaranとは、牡牛(おうし)座の首星(しゅせい=星座の中で最も明るい星)に付けられた名前です。アラビア語で「ついて来るもの」と言う意味だそうです。プレアデス星団の後からのぼることから、そう名付けられたのでした。ドラマは、親子三代にわたる物語ですが、冒頭では1番のみが流れて本編に入るようです。2番の歌詞はこうです。(作詞・作曲は、森山直太朗さん)

見上げてごらん煌(きら)めくアルデバラン 溢れてくる涙の理由(わけ)を
またこうして笑って会えるから ただ魂の赴(おもむ)く方へ
紡いで紡いだ心の糸 ペテンな時代に負けないように
もしも君が不確かな明日(あす)に心震わせているのなら 私だってそうよfriend

▼「ついて来るもの」とは、これからの時代を生きていこうとする、後に続く世代を指しているのでしょう。保育園で言えば、紛れもなく園児たちがそうです。子育てを終えた私たち世代からすれば、保護者の皆さんもそう。園長の立場からは、職員たちは皆、後に続く者たちです。そんな世代に贈りたい言葉が、聖書にあります。

「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように」

―祈りにも似たこのことばは、迫害の苦しみに遭っていたクリスチャンに向けて書き記された、同朋からの熱い思いの一文です。イエスから目を離さないように(まるで、一点の星を見つめるように)、イエスが味わった十字架の苦しみを考えて耐え忍べ…信仰を守り通す力の途絶えぬようにと希望を託します。森山さんは「ペテンな時代に負けないように」と、独特の表現を用いています。今なお、平和を唱えながらも戦争は止まず、愛を歌いながらも憎しみは増大しています。まさに“欺き”の世。「心が元気を失い、疲れ果ててしま」いそうな、そんな世を生きていく、いとしきアルデバランを応援していきたいです。♪私だってそうよfriend〜。ともに、生きます。


<聖書のことば> 新約聖書 ヘブル人への手紙 12章1−3節

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。


* ごあいさつ ***  「長い間お世話になりました」

1989(平成元)年4月に愛恵に副園長として勤務をスタート。同年6月に前園長の死去により園長に就任し、以来33年保育の日々を歩ませていただきました。
このたび、園長を南場佳美(現主任保育士)に交代し、4月からは法人理事長に専任となります。これまでと変わらず園には出入りしますので、声をかけてくださいね。
子どもたちと保護者様、地域の皆様の上に神様の祝福を、より一層祈っていきます。ありがとうございました。

    愛と恵み いつまでも      南場安正      
                                 2022年3月2日 レント「灰の水曜日」


  神様の翼の下に
Date: 2022-02-07 (Mon)
▼新型コロナウイルス・オミクロン株の感染が急拡大し、にわかに注目を集めているのが保育所の状況です。地域によっては自治体が登園自粛の要請を行ったり、待機期間の連鎖により休業が続いたり、子どもへの感染を食い止めようと2歳児からのマスク着用やワクチン接種が取り沙汰されたり・・・報道される事柄を見聞きするたびに、保育所もまた社会活動を支える大切な役割を果たしていることを改めて感じます。だからこそ、利用してくださる保護者様には、保育の継続を前面に打ち出してのご理解やお願いをさせていただいている次第です。皆様も、生活を維持しながら、このときを乗り切ろうと苦心し、忍耐しておられることが、日々の送迎のご様子からも伺えます。ありがたいことです。互いに思いやりながら、子どもたちを守っていきたいと願っています。

▼得体の知れないウイルス感染、流行病(はやりやまい)との闘いは、人類史上幾度となく繰り返されてきたことでしょう。多くの犠牲を伴いながらも克服してきた歴史が、今回のコロナ対策における科学的・医学的対応、政治的判断における精神的な支えとなっていることは確かです。必ず乗り越えられる、という信念が、対応にあたる現場の働き手たちに前を向かせているのだと思います。

▼この状況下で繰り返し思い出される聖書のフレーズがあります。

     主(=神様のこと)は ご自分の羽であなたをおおい あなたは その翼の下に身を避ける。(旧約聖書 詩篇90篇4節)

親鳥が雛を懐に囲み守っている様子が想像できます。この絵(シーン)は、親子の理想の姿かもしれません。

さて、この一文の前後に「疫病」(…それは「破滅をもたらす」、また「暗闇に忍び寄る」と形容されています)が登場します。神様があなたを疫病から「救い出される」と約束され、ゆえにあなたは「恐れない」でよいのだ、という確信となります。「大盾(おおだて)」とも「砦(とりで)」とも表現される、神様の御護(みまも)りの中に私たちはある、と。この励ましが信念となって、私たちは前を向けますね。

▼コロナ禍で、子どもたちの安心感が崩れてしまうことがないようにと強く願います。親子のかかわりも、また、園生活も、神様の大きな翼の下に護られていることを感謝して、子育て、保育にあたりましょう。

  神は笑いを下さいました
Date: 2022-01-05 (Wed)
常日頃の感謝とともに、新年のごあいさつを申し上げます。

親しい方を亡くされたご家庭には天来のお慰めを願いつつ、新たな年の祝福をお祈りいたします。

*  *  *

▼「笑う門には福来る(笑門来福)」・・・お正月にふさわしい諺(ことわざ)ですね。「笑いの絶えない家、明るい家庭には、幸運がやってくる」という意味のようですが、私のような昭和の後半世代には、テレビのバラエティー番組を見ながら大笑いする家族団らんの様子がすぐに思い浮かんできます。今では、スマホの普及で生活スタイルも遊びも様変わりした感がありますが、伝統的なお正月遊びに興じて笑い合うというのも、まだまだ健在でしょう。でも、お子さんの無邪気な仕草に、皆の頬がほころぶ・・・そんな素朴な姿にこそ、この諺の本来的な意味を覚えます。子どもを愛(め)でるが故に笑う≠フです。

▼イスラエル民族の祖となった人物は、アブラハムです。実は、彼には永らく子どもがありませんでした。ところが、神様は老齢になっていた彼に、「あなたの子孫は星の数のようになる」という、とてつもない約束を示します。戸惑うアブラハムでしたが、彼はその約束を信じました。一方、やはり老齢になっていた妻サラは、この約束を信じられず、心の中で、そんなことあるわけない、と笑いました。神様は、彼女の心の中を見抜いておられましたが、やがて時が来て、その約束は実現します。子を儲けたサラは言いました。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人はみな、私のことで笑うでしょう。」(旧約聖書・創世記21章6節)。

▼この物語が伝えるメッセージは、無論、神様には不可能なことはない、ということです。事実、そのようにして一つの民族が誕生し、増え広がっていきました。ただ、ここでは、サラの言葉を心に留めたいと思います。私たちは、これからの時代が決して容易にいかないことを察知しています。現実は厳しい。心の中の呟きは日々絶えないかもしれません。ですが、希望を持ちましょう。「神は私に笑いを下さいました」と言えるような素敵な事が、備わっていると信じて。

皆様に神様の祝福を祈る、この年の幕開けです。

  ママのスマホになりたい 〜惜しまない愛を
Date: 2021-12-01 (Wed)
▼スマホをお持ちなら、その便利さは言うに及ばずでしょう。動画や音楽の配信、ゲームなどがどんどん普及し、気分転換や息抜きには格好のツールです。メールでのコミュニケーション、情報共有なども簡単にでき、一度手にしたらもう手放せませんね(園の一斉メール配信もこれで成り立っています)。

▼先頃、「子育てとスマホの関係」について、園医のぽよぽよクリニック・田草雄一先生のメッセージが発信されました。そこで、「一緒にお母さんやお父さんがスマホを子どもの前で使うこと、小さな子どもがスマホを使うことについて考えてみませんか」と呼びかけ、「テクノフェレンス」という言葉を紹介されます。

「テクノフェレンス」
初めて聞く言葉かもしれませんが、これは今もみなさんの近くで行われていることかもしれません。これは「家庭での保護者によるモバイルテクノロジー利用時に、保護者が画面を閲覧する時間が親子のコミュニケーションや交流を阻害すること」と定義されています。
私のクリニックでも、お母さんが赤ちゃんを抱っこしてスマホに夢中になっている姿を日々目にしています。小さな赤ちゃんといえども、覚醒中には近くの人に対してさまざまなサインを送っています。
声には出しませんが、「こっちを向いて」「何かお話しして」「ギュッとして」などなど。そしてそのサインに応えてもらうことを繰り返すと愛着が育っていきます。
「ママのスマホになりたい」という子どもの訴えに耳を傾けてみましょう!
   (たまひよ【小児科医リレーエッセイ 34】 便利なスマホ。でも「テクノフェレンス」には注意を。つき合い方を考えてみませんか。)
    https://st.benesse.ne.jp/ikuji/content/?id=114113  

▼クリスマス。もらう側、あげる側、双方プレゼントが気になります。「ママのスマホになりたい」と声ならぬ声で訴えかけているわが子も、いつかは「スマホ、買って」と自分のものを欲しがるようになるでしょうか。そうなる頃までに親ができるのは、時間を、手間を惜しまずに、目を注ぎ続けることですね。

▼神様から人に届いたプレゼントは、救い主=キリスト(の誕生)でした。そこに込められた心は、「ひとり子をお与えになったほど」(聖書*)の大きな愛です。惜しまない愛≠、クリスマスに感じましょう。


<聖書のことば> 新約聖書 ヨハネの福音書 3章16節

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

  解(ほど)く時間 
Date: 2021-11-04 (Thu)
▼ある日、事務室にひとりのおともだちが駆け込んできました。腰には、ビニール紐がベルトのように巻かれています。「えんちょうせんせい、とって。」
遊んでいて、自分で巻いたものの取れなくなったのでしょう。結び目は固くなっていて、確かに、その子には手に負えなくなっていたのでした。
「来てごらん。(突き出したおへそあたりの結び目を見て)あー、引っ張って固くなったんだな。」
そう言って、結び目の団子になった部分に爪を立て、ほどき始めました。
思惑がはずれたのか、「ハサミで切れば、いいがー」と、その子は急(せ)かすようにつぶやきます。
「切っちゃえば簡単だけど、こういうのは、時間をかけてほどくのがいいんだよ。」
その子の妹のことを話題に出して、やりとりをしながら、なかなか緩まない結び目に指先を集中させます。
ほどなくして、結び目はほぐれていき、要らなくなった紐ベルト≠ゥら、その子は無事解放されました。
喜び合う間もなく、お礼代わりか「あげる」と言って、ビニール紐を置いて部屋へと戻って行きました。

▼切ってしまえば、簡単で早く済むでしょう。でも、その時は固くなった結び目を丁寧に解いていく時間を、その子と共有したかったのです。この出来事に、私自身は人との関係づくり≠ニいう課題を重ねながら、待つことや忍耐強く取り組むことを改めて教えてもらったように思います。では、その子にとっては?・・・解く時間を惜しまずに大切にできる人になってほしいな、と心密かに願うのです。


<聖書のことば> 旧約聖書 伝道者の書 3章1、11節

「…天の下のすべての営みに時がある。…神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」


  自分を守りたい
Date: 2021-10-01 (Fri)
「・・・インガーの母親は彼女を育てているとき、苦況にあり、自身の痛みをインガーにしょっちゅう伝えました。幼いインガーにとって、それを聞かされるのは苦痛でした。子どもは大人の苦しみを受け止めきれませんし、保護者が困っているのを目の当たりにすると恐怖を感じるものです。そこでインガーは幼いながら、母親の注意を別のことに向けるため、まったく別の話題を切り出すという戦略をとるようになりました。
大人になり母となったインガーは、子どもたちが困ったことがあっても、自分に話してくれないのはどうしてか不思議に思うようになりました。子どもたちに理由を尋ねると、「話したことはあるけど、毎回、話題を変えられちゃうんだもん」という答えが返ってきました。・・・」

▼この話は、デンマークの心理療法士であるイルセ・サン氏が、「自己防衛の戦略」(自分自身の心に鈍感になろうとしたり、他者や自分の内面と距離を置こうとしたりする働きかけを、氏はこう表現します)が幼少期の早い段階で獲得されることを示す具体例として紹介したものです。子どもとの会話の録音を後から聴いたインガーは、近しい人の危機や悲しみに接するたびに無意識に話題を変えてしまっていたことに気づいたそうです。サン氏は「そのような自己防衛の戦略を知らず知らずのうちにとることが、深い人間関係を築く妨げになることがある」と解説していますから、ドキッとします。(『心がつながるのが怖い 愛と自己防衛』ディスカバー・トゥエンティ―ワン、2017 より)

▼「自己防衛の戦略」と聞くと、何やら厳(いか)めしい感じを受けます。願うことは、子どもたちの内側に「自分を守りたい」という気持ちが健全に形成され、その働きかけも健全であるようにということです。


<聖書のことば> 旧約聖書 箴言(しんげん) 4章23節

「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。


  まなざしのちから
Date: 2021-09-06 (Mon)
▼先日お知らせしたように、当園でも、コロナ対策として3歳以上児(桃組、青組、白組)に園児のマスク着用のお願いを文書でお願いしました。子どもの活動や健康に却って支障を来たすのではないかとのご心配もあろうかと思いますが、お子さんの様子を見て無理に着用することを求めず、配慮していきます。

▼今年2月には、園内の職員たちに紙上研修として、保育士がマスクを着用して保育することの留意点を確認しました。そこでは、保育者の顔の多くの部分がマスクで覆われることによって、子どもとのコミュニケーションに影響があるのかどうかについて、専門家の見解を紹介し、認識の共有をはかりました。その見解の結論は、「マスクで口元の表情が見えなくても、声やジェスチャー、接触などによって保育者の気持ちを伝えることは可能であり、愛着障害の心配はなく、また、目元の表情も保育者の気持ちを伝えることができるということです※」というものでした(榊原洋一・お茶の水女子大学名誉教授 全国私立保育園連盟『保育通信』2021年1月号より)。

▼批評家の若松英輔さんが先頃、著書『沈黙のちから』(亜紀書房)の出版を記念してウェブでの質疑応答形式のトークイベントを開催しましたが、質問者である看護師が、現場にあって、患者に声をかけることの難しさ、どう言葉をかけていいのか迷うとき、沈黙をもって寄り添う術は、と請いました。若松さんが開口一番挙げたのは、「まなざし」の力でした。確かに、まなざしの優しさに癒されもし、その反対に、まなざしの冷たさに傷つきもします。「目は口ほどに物を言う」というのは本当だと改めて思います。

▼コロナ感染の脅威が迫ります。緊張感が漂う中での保育です。今しばらくはマスク着用で過ごす子どもたち。保育者は、そのまなざしから想いを汲み取る力が求められます。「目はからだのあかり」(聖書)。想いを伝え、想いを受け止める…双方向のまなざしのちから≠身に着けたいと思います。


※ 榊原氏の文章の中で「接触」についての言及がありますが、保育現場では、「接触」については、今般の状況を踏まえ、感染防止の観点から気をつけて対応しています。


<聖書のことば> 新約聖書 マタイの福音書 6章21−23節【口語訳】

「あなたの宝のある所には、心もあるからである。目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」


  競技をする人は・・・
Date: 2021-08-04 (Wed)
▼コロナ禍の中で開催が危ぶまれていたオリンピック「TOKYO2020」ですが、予定通り行われ、各競技で熱戦が繰り広げられています。日本の選手の活躍が期待され、既に結果も出てきています。今回ならではの「異例」が多くある中で、最も大きなものは何といっても「無観客」でしょう。周囲に声援を送る人がいないことは、選手たちのパフォーマンスに何らかの影響を与えるのかもしれませんが、目標に向かって力をふり絞る姿、選手たちの緊迫した競い合いは、(テレビで)観る側を興奮させます。このまま混乱なく、次のパラリンピック開催へとつながっていってほしいと思います(チケットを購入していた方は、本当に残念でしたね。会場周辺のお店や関係する企業にとっても、経済への波及が乏しく痛手となりました)。

▼何においてもそうでしょう。やるからには、勝利の証である賞をめざして取り組む、というのが常道です。聖書にも次のような言葉が記されています。(新約聖書・コリント人への手紙第一 9章)

競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。
ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。
競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。
むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

オリンピックの効用≠ニいうものがあるとすれば、競技者を単に応援するだけでなく、自分の生き方と重ねて、自らへの戒めとするところにあるのでしょう。何を目標にしているか、自分が失格とならないようにするにはどうあるべきか・・・アスリートのひたむきな姿が、いつの間にか自分へのエールに変わっているのを発見したりします。

▼お家では、お子さんと一緒に画面の前で一喜一憂することでしょう。勝者の歓喜、敗者の涙、技そのものの凄さ・・・子どもたちの目にリアルに映る人の可能性や感情が育ち≠ヨとつながりますように。


  <無題>
Date: 2021-07-06 (Tue)
<聖書のことば>

   人は、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか(聖書)


▼「選手生命」とは、「スポーツに関して、現役選手としてプレーできる期間のことを人間の一生に喩(たと)えた」(Weblio辞書)言葉です。一方、「政治生命」とは、「政治家として活躍する力の源泉のこと」(同)とありました。後者の方がより「いのち」本来の意味に近い使い方なのかなと思います。いずれにしても、選手であれ、政治家であれ、その「生命」がどれ程輝かしくても、或いは絶たれたとしても、本当の「いのち」には替えられません。

▼夏本番。裸で水と遊ぶ子どもたち。この子らは、確かに今、「いのち」を生きています。

  雨に想う・Part2
Date: 2021-06-03 (Thu)
▼あいう・・・一体何のことだか、わかりますか? ひらがなの「あ」行の最初の三文字を並べてみただけ?あいは「愛」、うは「雨」。「愛雨」漢字で書くと、なるほど、となりますね。『雨のことば辞典』(講談社)の最初に紹介されています。解説には、「雨を好むこと。自然の摂理にしたがって降る雨は、動植物の命の水の供給源であり、人の心にうるおいを与えるかけがえのない賜物。それでも厭(いと)われることが少なくない」とありました。皆さんは、雨を好む人? 好まない人? 時と場合によりますかね。

▼今年は随分早い梅雨入りとなりました。いつ開けるのだろうかと季節の移ろいについ思いが向きがちになるのは、コロナのために何気ない日常のリズムを崩されたせいなのかもしれません。でも、ここはじっくり雨の日を受け入れて、自分なりのし方で雨を楽しみ、味わってみてもいいかもしれませんよ。

▼先頃、アメリカの歌手、B・J・トーマス氏が死去したことが報じられました。「雨にぬれても/Raindrops keep falling on my head」です。映画の主題歌として、1969年に大ヒットしました。「歌詞では、自分の身に降りかかり続ける憂鬱(ゆううつ)な出来事を雨粒(Raindrops レインドロップス)に例えながら、それでも僕は負けない、もうすぐ幸せはやってくる、僕は自由なんだ、何も心配ないさと前向きなメッセージがつづられています。」(http://www.worldfolksong.com/

けど分かってる事が一つあるんだ 憂鬱なことがあっても      But there's one thing I know The blues they send to meet me
僕は決して負けないって事を もうすぐ幸せがやってくるって事を Won't defeat me It won't be long till happiness steps up to greet me

「人気の一方、薬物乱用に苦しんだ時期もありましたが、キリスト教への信仰を深め、薬物をやめてからはゴスペルで信仰を表現し、生涯、5回にわたってグラミー賞を受賞しました」とNHKのニュースが伝えていたのが印象的でした。歌詞を地で行くようなその生き様を、想像しています。

▼旧約聖書に登場する預言者ホセアは、「主(神様)は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる」* と語り、国難にあえぐ人々を励ましました。私たちも、雨にそれぞれの思いを重ねながら、時に天を仰いで雨と無邪気に戯(たわむ)れる子どもに寄り添いながら、雨を好んでもいいのでしょうね。渇いた心を潤わせるように。


<聖書のことば> 旧約聖書 ホセア書 6章3節

「私たちは知ろう。主(神様)を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」

  いまこそ「リア充」!
Date: 2021-05-10 (Mon)
▼ここでいきなり短歌を紹介するのは、少々唐突かもしれません(俳句ならば、たとえば、TVのバラエティー番組『プレバト!!』では、人気芸能人たちがその腕を競っていますから、馴染みがあるでしょうか)。歌人・伊藤一彦氏が2017年4月に詠(よ)まれた一首です。(『光の庭 短歌日記2017』より)

  ソロ充とキョロ充の語を今日知りてわが若き日を思ひ出すなり

4年前は、「リア充」ということばが流行っていたようで、伊藤氏もそれは知っていたけれど、「ソロ充」や「キョロ充」があると知って、その驚きを若い頃を思い出すという心の動きに表したのでしょう。「昔もそんな若者がいたような気がする」と懐しんでいます。ちなみに、「ソロ充」は、ひとりで物事を楽しめる人のことを、「キョロ充」は、いつもキョロキョロして周囲を気にしている人のことをいうのだそうです。「ソロ充」と「キョロ充」は、ですから互いに相反する様子を表しているわけです(なるほど)。いずれも「リア充」から派生したようですが、皆さんはご存じでしたか。

▼このコロナ禍で、「リア充」つまり今の現実に充実感を味わうことが、コロナ前とは違う意味で問われているように思います。思うように人と会えない、どこへも行けない状況が続く中、何とか工夫して「ソロ充」している人もいれば、他はどうしているのだろうと「キョロ充」している人もいたりします。いつの時代にも、それほど変わらない様子なのかもしれません。

▼子どもの姿も、「ソロ充」さんがいたり、「キョロ充」さんになったり、それぞれの個性の現われが時にいとおしく見えます。心から願うことは、ストレスの大きい時代、社会にあって、満ち足りた心≠フ「リア充」さんでいてほしい、今を大切に、今の出会いと日々の経験が充実しますように、ということです。
もちろん、保護者さんもです! 子どもたちの「リア充」は、みなさんあってのことですからね。


<聖書のことば> 新約聖書 テモテへの手紙第一 6章6、7節

「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。」




  小川のささやき 〜春だよ、春だよ〜
Date: 2021-03-09 (Tue)
▼1912(大正元)年に発表された、春を歌う唱歌「春の小川」(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)。

♪春の小川は、さらさら行くよ。 岸のすみれや、れんげの花に、 すがたやさしく、色うつくしく 咲けよ咲けよと、ささやきながら。

  春の小川は、さらさら行くよ。 えびやめだかや、小鮒(コブナ)の群れに、 今日も一日ひなたでおよぎ、遊べ遊べと、ささやきながら。

春が来ると、何となくメロディーが浮かんできます。モデルとなった小川は、東京・渋谷区にあるそうです。
この唱歌、今でも小学校の音楽の時間に歌われているのでしょうか(失礼)。

▼ベストセラー作家の小川糸さん。ドイツと日本とを往復する生活から紡ぎ出されるナチュラルな生き方が多くの人を魅了します。「小川糸」―実は、ペンネームなのですね。本来の姓名は、もちろんあって、でも、作家としてのお名前を考えた末に思いついたのだそうです。

名字の「小川」は、とても単純ですが、川が好きだから。昔から川の流れを見ていると、自然と心が落ち着くのです。いつかは川のそばに住みたいと思っているほど。豪快に流れる大きい川よりは、そよそよと流れる小さい川の方が親しみがあって私らしいかな、と「小川」を選びました。「小さい」という字には、見るたびに、自分の小ささや未熟さを意識して、初心に帰れるように、という思いも込めています。(『育てて、紡ぐ。暮らしの根っこ』から「小川糸のルーツ」)

▼何かと忙しい私たちは、時には、小川のせせらぎをただ聞いて過ごす、そんなことがあっていいのかもしれません。100年前は「咲けよ 咲けよ」「遊べ 遊べ」とささやいた小川は、今はどんなささやきなのでしょうね。河岸には花はなく、えびも魚も泳いでいない…ささやく相手は、近づいて来た子どもかも。「春だよ、春だよ」と、優しくささやく小川に、親子で出かけてみてはいかがですか?


<聖書のことば> 旧約聖書 詩 篇 100篇1節

「全地よ。主(神さま)に向かって喜びの声をあげよ。」・・・春をつくられた神さまをたたえます。

  自分でかんがえる 〜安野さんの遺した思いに寄せて〜
Date: 2021-02-02 (Tue)
▼先ごろ、津和野町出身の世界的画家、安野光雅さんが亡くなられましたね。訃報に接して思い出したのが、このコラムで2年半ほど前に紹介した安野さんの、その当時の最新刊『かんがえる子ども』(福音館書店)のことでした。コラムではご自身の子ども時代を振り返りながら、また、画家としての歩みを通して、学ぶことや考えることの大切さを歯切れよく説いている、ちょっとした刺激をもらえるエッセイ集です≠ニ紹介しました。幸いにも目の届くところにあったので、もう一度手に取りました。改めて帯を見ると「子どもも、おとなも、自分で考えるくせをつけてほしいのです。自分で考え、判断することの中から、これはほんとう、これは嘘と、物事を見極めていけるようになってもらいたいと、思っています」とあります。なにか、安野さんの遺言のように思えました。


▼ 私はあなた方に、いつも自分自身でものを考えるように努めてほしいと思うのです。誰が言ったにしろ、聞いたことを全部信じこまないように。新聞で読んだことをみな信じないように。調べないで人の意見に賛成しないように。自分自身で真実を見出すように努めて下さい。ある問題の半面を伝える非常に強い意見を聞いたら、もう一方の意見を聞いて、自分自身はどう思うかを決めるようにして下さい。いまの時代にはあらゆる種類の宣伝がたくさん行われています。そのあるものは真実ですが、あるものは真実ではありません。自分自身で真実を見出すことは、世界中の若い人たちが学ばなくてはならない、非常に大切なことです」(エリザベス・グレイ・ヴァイニング夫人『皇太子の窓』)

安野さんは、「あとがき」の最後に、終戦直後、当時の皇太子(現上皇陛下)の家庭教師として招へいされたヴァイニング夫人の、最後の授業でのこの言葉をあげています。時を越えて、このメッセージは一層熱を帯びて迫ってきます。「これは、わたしも同じ考え方です」と、安野さんは結びます。


▼子どもたちが自分で考えるその先に、ちゃんと真実を置いておく…それが私たち大人の責任です。



<聖書のことば> 新約聖書 ピリピ人への手紙 4章8節

すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。

  親心に、神の恵みあれ
Date: 2021-01-05 (Tue)
常日頃の感謝とともに、新年のごあいさつを申し上げます

親しい方を亡くされたご家庭には天来のお慰めを願いつつ、新たな年の祝福をお祈りいたします。

*          *          *

▼子育て真っ只中の保護者の方々には、ちょっと早いかもしれませんが、1月といえば新成人の門出を祝う「成人の日」があります。今年は11日(第2月曜日)。法律は「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としてうたいます。わが子の成人まで20年近く、少なくとも14、5年。その間に、大人の自覚と自ら生き抜こうとする意欲がいかに育つか…当の新成人より、むしろ親への期待感がにじみ出ているようです。そして、保育や教育に対して、その責務を問いかけるようにも思えてきて、身が引き締まります。

▼クリスマスにお祝いした救い主イエス・キリストの生誕の地は、ユダヤ(イスラエル)の国でした。イエス様は、ユダヤ人としての生涯のスタートから宗教的慣例の中で育っていかれます。聖書には、イエス様の幼少期に関する記録はほとんどありませんが、唯一のエピソードとして、12歳の時に北部の村ナザレから大都会エルサレムの神殿へ、祭のために都詣(みやこもうで)をしたことが記されています。イスラエルでは13歳が成人とされ、神の教えに従って生きる者として一人前と見なされました。13歳からは父親とともに都に上り神殿に入ることが義務とされていましたが、実際には1年早く12歳から予行練習≠したわけです。少年イエス様の姿を伝えるこの出来事の背景には、両親(ヨセフとマリヤ)の、早くわが子を成人として立たせたいという親としての熱心な思いがあったことがうかがえます。(大嶋重徳『クリスマスの約束』教文館 参照)

▼この親心、その日まで貫けることは神様の恵みによることでしょう。ならば、子どもにとっては一層大きな恵みです。ただ、なかなか気づいてくれませんがね(…実感)。


<聖書の言葉>  新約聖書  ルカの福音書 2章40節

幼子(イエス様)は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。

  喜びに、悲しみが寄り添う 〜クリスマスの祈り
Date: 2020-11-30 (Mon)
▼このコラム10月号で、出産を控えた女性と胎の中の赤ちゃんに思いを向けました。無事に生まれた知らせを聞くにつけ喜びが広がります。ふと、お母さんにとっては二度目、三度目(それ以上)となる出産を、お兄さん、お姉さんとして迎える上の≠ィ子さんはどんな思いなのだろう・・・絵本『ピーターのいす』(E・J・キーツ作 偕成社)と出会って、そんなことを考えました。

▼ピーターは、一人で積木を高くして遊んでいますが、ガシャン!と崩れます。「しいーっ」「もっと、しずかに あそんでね。うちには、うまれたての あかちゃんが いるのよ。」とお母さんの声。ピーターが妹のスージーの部屋を覗くと、ピーターが使っていたゆりかごがピンク色に塗られています。「あれ、ぼくの…」お父さんは、彼が使っていた食堂いすもピンクに塗ろうとしていました。ベッドは既にピンク。悲しい気持ちのピーターは、まだ塗られていないいすを持ち出すと家出≠決意します。家のすぐ外に家出≠オた彼でしたが、持ち出したいすにいざ座ろうとしても、小さくてお尻が入りません。お母さんが窓から声をかけても知らんぷりを装ったピーターでしたが、そーっと部屋に戻ってお母さんを驚かせます。テーブルでは、お父さんが待っていました。ピーターは大人用のいすに座り、お父さんにこう言うのです。「おとうさん、あの ちっちゃな いす、スージーのために、ピンクにぬろうよ。」自らの成長の気づきから、寂しさや悲しさを他者への思いやりへと切り替えていく子どもの健気さ、心の育ちを見事に描いた、心打たれる作品です。

▼救い主キリストの生誕を祝うクリスマスは、まさに生まれる喜びが基調の祝祭です。今年、こんな状況(コロナ禍)で迎えるとは思いもよりませんでしたが、喜び一色と思える事のそばで、悲しみが寄り添っていることを気づかせてくれる機会となるのかもしれません。「かみさま、子どもたちに、心の成長をプレゼントしてください。」今年のクリスマスの、ささやかな祈りです。



<聖書の言葉>  旧約聖書  詩 篇 145篇16節

私の神……あなたは御手を開き 生けるものすべての願いを満たされます。

  そこに保育はあるんか
Date: 2020-11-02 (Mon)
▼女優の大地真央扮するおかみさん≠ェ、予測もしない奇抜な出方で料理人コンノ≠フ前に現れるアノ某金融会社CM。けっこうハマっている方が多いかもしれません(わが家ではいつも、お箸が止まって見入ります)。いつしか、決め台詞が耳から離れなくなりました。

「そこに愛はあるんか」。

真面目な話、それぞれの仕事や生き方にまで鋭く切り込んでくる言葉だと思います。私たち保育者(保育の専門性を有する者たち)の場合は、さながら「そこに保育はあるんか」です。


▼新型コロナウイルス感染症が保育園から起こらないようにするために、ここまで対応をしてきました。比較的落ち着いているのは、ひとえに保護者の皆様のご理解とご協力によるもので、感謝しています。感染防止を念頭に置いての子どもたちの活動は、その都度検討の対象です。絶えずやってくる「これ、どうしましょう?」に、簡単に「それじゃー、止めよう」とはいかない場合がいくつもあります。遊びの環境や集団活動をどう構成しようか、どうしたらこの子の良さは伸びるだろう…考えては立ち止まる、コロナ禍に限ったことではありませんが、保育にはそういう側面があります。そのような時、明確な判断の基軸があるとすれば、まさしく「そこ(その判断)に保育はあるのか」という自らへの問いかけなのでしょう。コロナ禍は、その意味で、保育においても「普段」とか「従来」を見直す機会(チャンス)をもたらしたと言えます。


▼愛恵の保育は、まだまだ発展途上。向上を目指して取り組んでいこうとしています。


<聖書の言葉>  旧約聖書  伝道者の書 7章14節

順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ(順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。)

  生まれることの幸せ
Date: 2020-10-01 (Thu)
▼出産を控えた女性と接する機会が、比較的多くあります。下のお子さんの誕生を待ちわびる保護者さん。わが子をどの保育所に入れようかと見学に来られる妊婦さん。今年は産休に入る職員が数年ぶりにあって、気を配る様子が身近に感じられます。今、保育園にお預かりしているどの子も、お母さんのおなかの中で命が育まれ、時が来てココに移ってきたんだな、と思いを馳せたりもします。

▼詩人・谷川俊太郎が、しばらく前に綴った文章が心にしみてきます。

  子宮の中で羊水(ようすい)に包まれているとき、イノチは幸せなんだと思う。出産の瞬

  間は突然空気を吸ったり吐いたりしなきゃいけないから、びっくりして泣きわ

  めくことになるんだけど、イノチは子宮の外の世界にすぐ順応するようにでき

  ているから、やがてスヤスヤ眠り始める。大人はそれを見て幸せになる。人間

  を含めて生きものは、幸せに生まれついているのだと思いたい。
                               『幸せについて』(ナナロク社)


▼神の御子(みこ)イエスさまを胎に宿したことを知った母マリヤは、先に妊婦となっていた親戚のエリサベツのもとに行きます。喜びを分かち合いたかったのでしょう。マリヤのあいさつのことばに、エリサベツのおなかの中の子が躍(おど)ったのでした。そのときのエリサベツのことば。

  「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。」(ルカの福音書 1章42節)

イエスさまは特別ですが、神の祝福は普遍です。おなかの赤ちゃんとお母さんに、幸多かれ。

  理想の人 〜これからも親であるお互いのために〜
Date: 2020-09-03 (Thu)
▼一年のうちの多くの時間を、たくさんの子どもたちと一つ屋根の下で過ごす日常です。事務室の窓越しに、子どもたちのいろいろな様子が伺えます。「あの子は、どんな人になるのかな」…ふとした思いから期待や楽しみに想像は膨らんで、遠く未来の、おぼろげな彼、彼女の姿が心に浮かびます。

▼かの宮澤賢治は、「雨ニモマケズ」の詩に、理想となる人間像を詠(うた)いました。みんなから「デクノボー」と呼ばれるその人を一言でいえば、無私≠ナしょうか(モデルは、同郷のクリスチャン、斎藤宗次郎です)。「サウイフモノニ ワタシハナリタイ(そういう者に 私はなりたい)」と結びます。なりたいと思うほどの理想の人≠ェあるのは、とても幸せなことですね。

▼聖書には、イエスさまのことが、はるか昔のメシア(救い主)を指し示す預言のことばに重ねて紹介されています。

   彼は言い争わず、叫ばず、
   通りでその声を聞く者もない。
   傷んだ葦を折ることもなく、
   くすぶる灯芯を消すこともない。(マタイの福音書 12章20節)

つぶやき一つで物事がどのようにも動くSNSの世界では、誰もが声を挙げられます。そんな時代と真逆の姿は、見向きもされないかもしれません。しかし、イエスさまは「折らず」「消さず」…傷つき、消えそうなものへの慈しみにあふれている、と。ここにも理想の人≠見る思いがします。

▼多くを語らずとも、いつもそばにいて、支え、見守る……サウイウオヤニ ワタシハナリタイ。

  いつも次の世代のために 〜コロナ禍に想う〜
Date: 2020-08-03 (Mon)
▼首都・東京の知事の言葉がズシリときます。「残念ながら、例年とは違う夏になる」。都内の新型コロナウイルス感染は(この原稿を書いている時点で)日毎に増えており、Go toトラベル≠フ呼びかけと重なってか、感染拡大の心配が全国を覆います。経済回復との両立は、極めて至難です。

▼東京⇔46道府県≠フ構図に心が揺れる中、石垣りんの「地方」という詩に出会いました。(童話屋『空をかついで』収録)


私のふるさとは / 地方、という所にあった。 / 私の暮らしは / 首都の片隅にある。

ふるさとの人は山に木を植えた。 / 木は四十年も五十年もかかって / やっと用材になった。

成人してから自分で植えたのでは / 一生の間に合わない / そういうものを植えて置いた。

いつも次の世代のために / 短い命の申し送りのように。

もし現在の私のちからの中に / 少しでも周囲の役に立つものがあるとすれば

それは私の植えた苗ではない。 / ちいさな杉林 / ちいさな檜(ひのき)林。

地方には / 自然と共に成り立つ生業があったけれど

首都には売り買いの市場(いちば)があるばかり。 / 市場(しじょう)ばかりが繁栄する。

人間のふるさとは / 地方、という美しい所にあった。


▼都会にも地方にも、暮らしがあります。どこであれ忘れてはならないのは、「いつも次の世代のために」という意識でしょう。この禍(わざわい)を乗り越える鍵も、そこにありはしないでしょうか。



<聖書の言葉> マルコの福音書 9章35−37節

イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」

それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

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