■ 見守りと見張り |
Date: 2020-07-06 (Mon) |
▼最近、独り身になられたあるご老人のために、落ち着くまでの間、教会の人たちが交代でお手伝いをすることになりました。できるだけ見守ってさしあげよう、当人の意向を丁寧に聞いて、当人の気持ちに寄り添っていこうと申し合わせました。
▼精神科医の宮地尚子氏が、子どもの安全を願っての大人がとる行為である「見守る」ことと「見張る」ことの違いは何か、と問いかけ、2つの答えを示します。「一つには大人が子どもを信頼しているかいないか、もう一つには大人が社会を信用しているかいないか」だと。大人が「自分の評価基準に子どもがと届いていないと思うとき、子ども一人では対処できないと思うとき、『見守る』は『見張る』に変わる」、世の中は危険がいっぱいで、何かあったら(大人の)自分が世間に責められると思うときも、つい過保護や過干渉になってしまう、とも。(『ははがうまれる』)
▼保育園の保育は、どちらなのか。安易に「見守る」と言ってはいないか。子どもを信頼し、子どもにとってすぐ手の届く社会ともいえる保育園を、信用できる環境にしていく責任を感じています。
<聖書の言葉> 詩篇121篇より
主(神様)はあなたを守る方。…すべてのわざわいから…行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。
■ 雨に想う |
Date: 2020-06-03 (Wed) |
▼突然ですが、カーペンターズをご存じですか。
兄リチャード、妹カレンのコンビで一世を風靡(ふうび)し、数々のヒット曲を生み出しました。
「イエスタデイ・ワンス・モア」「トップ・オブ・ザ・ワールド」などが有名ですね(歌えませんが)。
70年代、彼らの初期の代表作の一つが、「雨の日と月曜日は」です。
保護者の皆さんの親世代には、懐かしいサウンドです。
雨の日と月曜は、いつも気が滅入る Rainy days and Mondays always get me down
というフレーズとメロディが印象的で、愛する人を想う余り、浮かんでは消えるブルー≠ネ気持ちを巧みにうたっています。
この歌が思い出される季節、梅雨が来ました。
▼『雨のことば辞典』(倉嶋 厚、原田 稔編著)という本があるそうです。この本が、こう紹介されていました。
「雨」という自然現象に細かな違いを感じ取り、この列島に住む人はいくつもの美しいことばを
生んだ。雨が降り出しそうなようすは「雨気(あまけ)」、明るい空から降るにわか雨は「白雨
(はくう)」、田畑をうるおす雨は「穀雨(こくう)」というように……。
ことばの数だけ、気持ちがある。それに気がつくと、雨降りの毎日でも楽しくなる。 辻山良雄『365日のほん』(河出書房新社)
▼これを読んで、またしても思い出すのは、次の聖書のことばです。
神は…あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。(使徒の働き14章6節)
朝からの雨は気分を滅入らせ、出鼻が挫(くじ)かれる・・・確かにそういうこともあるでしょう。
でも、雨の日の一つ一つに、神様からの、私たちの心を満たす恵みが込められていると捉えると、一層「雨降りの毎日でも楽しくなる」のでは、と思います。
「今日の雨は、僕雨(ぼくう…ボクのために降ってくれた雨)」なんてね。
▼「雨の日を、楽しんだら?」――自粛が開けようとするタイミングと重なって、そんな声が聞こえてきそうです。
さて、その声の主は? ほら、そばにいますよ。
雨を楽しむ名人、こども。
こどもと楽しむ、この季節。喜びが心に満たされますように。
■ 母に感謝する |
Date: 2020-05-14 (Thu) |
▼新元号「令和」の幕開けを祝賀した昨年とは大きく違って、今年の大型連休の街中は、新型コロナウイルスの感染防止の緊急事態宣言発令下で、ステイ・ホーム≠フ静かな状態でした。
それぞれのお宅では、工夫しながらご家族で過ごされたことでしょう。
学業期にある子どもたちは、連休明けのスタートダッシュの意気込みも、自粛要請延長によって、萎(しぼ)んでしまった格好ですね。
経済活動への打撃は相当深刻です。
この災禍の終息は、万人の願いです。
▼ところで、祝日はどの日も、「自由と平和を求めてやまない日本国民」が「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために」「国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する」と、『国民の祝日に関する法律』第1条に規定されています。
5月の3つの祝日は、それぞれ次のようにうたわれています(同法第2条)。
憲法記念日 5月3日 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。
みどりの日 5月4日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
こどもの日 5月5日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
こどもの日制定の意図に、「母に感謝する」とあるとは、知りませんでした。
この日は、こどもだけでなく、お母さんも主役でした。来年のために憶えておきましょう(ちなみに、5月第2日曜日は「母の日」。こちらは、アメリカ由来です。母への感謝を表す日が連なりますね)。
▼離れて暮らす老母に、電話口で話しかけますが、「耳が遠くなって、聞こえない」と言って会話にならず、本当に遠くにいるような感覚でした。
感謝は心に秘め、祈るのみでした。
再び母を訪ねるのは、いつになるでしょう。
事態が収まるのを待ちます(それまで、どうか健やかに)。
<聖書のことば> 旧約聖書 箴言(しんげん) 23章22、25節
あなたの母が年老いても蔑(さげす)んではならない。…あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ人を楽しませよ。(聖書)
■ 愛は人を育てます 〜「生活発表会」に想う〜 |
Date: 2020-02-28 (Fri) |
先ごろ行われた愛恵の生活発表会<桃・青・白組>。
3歳児の発表では、「レスキュー」グループの数人が、長い縄を使って体を動かして遊びました。縄の下を腹這いでくぐり、次は寝転んで縄を手繰り寄せながら背這いして移動し、最後は、座っている担任の腰に縄をかけて、引っ張って動かす、つまりは助けるのでした。
遊ぶ前の準備運動では、手を繋いで輪になり、担任の掛け声に従って体を動かします。「前!」だと輪は小さくなり、「後ろ!」だと広がります。「座る!」も「立つ!」も、手を離さずに上手くこなしていきます(子どもの一人が通うスポーツ教室の体操なのだそうです)。
私が驚いたのは、担任がそれまで一度も言ったことのない掛け声を、なんと本番で掛けたのです。「片足!」子どもたちは、よろけながらも、嬉しそうに足を上げていました!担任も、思わず一緒に遊ぶ≠フですね。でも、そうやって子どもが楽しく(主体的に)遊ぶ姿を引き出して、観る者に示してくれたわけです。
この場面に、愛恵がめざす保育が垣間見えたような気がします。
続く青組、白組の発表も、お家の人に見てほしい、伝えたいという思いが溢れていました。自分たちで考えを出し合い、ストーリーや構成、セリフまでも相談したり、認め合ったりして決めていったようです。ですから、いずれの発表も、本当に面白かった!
どの子も愛(いと)おしく、その愛を保育という業(わざ)において表したい…改めて抱いた思いです。
<聖書のことば> 新約聖書 コリント人への手紙第一 8章1節
知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
■ 怒りの点検、してみませんか? |
Date: 2020-02-04 (Tue) |
▼節分には、豆まき。「鬼は外、福は内」の掛け声よろしく、子どもたちは赤い顔をした鬼をめがけて勢いよく豆をまきます。鬼はあえなく退散・・・近年の鬼は、あまりしつこく迫ったりしないで、あっさり引き下がるでしょうか…(鬼のほうでも、いろいろと気遣いが必要なようです)。
▼鬼は、人間の感情の中でも、特に「怒り」を表すのに最適な存在でしょう。「鬼の形相(ぎょうそう)」とは、まさしく鬼の顔を思わせるような怒りの表情のことです。ストレスの多い社会にあって怒りをどうコントロールするかが注目されて久しいですね。「アンガーマネージメント」と言われる心理トレーニング(怒りを予防・制御・分散する方法)を取り入れようとする人も多くいるようです。さて、子育てにおける「怒り」。皆さんは、向き合っておられますか?
▼大学教授であり臨床心理士の藤掛明さんが、ご自分の書かれたブログ記事などを集めて寸言としてまとめておられます。その中にあった、4つの「怒りの点検」が参考になります。(『真実の自分と向き合う』いのちのことば社 2019 より)
怒りの点検1・自覚がない場合
一番危ないのは、本当は怒っているのに、本人にその自覚がない場合である。自覚がないのに、身近な人からあなたが怒っていることを指摘されたら、深刻な事態であると考える。
怒りの点検2・八つ当たり
人生が行き詰まり、人生の危機に遭遇しているとき、ある人はそれを「怒り」で表現する。「八つ当たり」のようにして、身近な特定人物に怒りを注ぎこんでしまうこともある。
怒りの点検3・バーンアウト
「仕事」量が、自分のキャパを超えているときに、ある人は「怒り」というサインを出す。バーンアウト(燃え尽き)の兆しである。
怒りの点検4・語ってみる
怒りを自覚したら、一呼吸入れて、他人に語ってみることである。
今、白分の人生で起きてることについて、あるいは、ここ最近の忙しさについて、いったん心を白紙にしながら語ってみることである。
▼人生を左右するような事態の中で抱く怒りもあれば、些細な怒りもあります。いずれにせよ、怒りをおさめることは簡単ではありませんが、「一呼吸入れる」ことを実行したいものです。
<聖書のことば> 新約聖書 ヤコブの手紙 1章19節
人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
■ 小さな者ですが 〜子年に想う〜 |
Date: 2020-01-06 (Mon) |
常日頃の感謝とともに、新年のごあいさつを申し上げます。
親しい方を亡くされたご家庭には天来のお慰めを願いつつ、新たな年の祝福をお祈りいたします。
* * *
▼十二支の巡りは最初に戻って、今年は「子(ね=鼠・ねずみ)」です。一説では、干支を決める場に猫もいるはずが、ねずみに違う日程を知らされたためにあえなく選ばれず、それで猫はねずみを追いかけ回すようになったとか(これを犬猿の仲≠ニ言う!? ややこしいですが…)。それで十二支から漏れたとなれば、猫派には何とも遺恨(いこん)?となるエピソードですね。
▼ねずみは、絵本の世界では人気があります。よく知られているのは『ぐりとぐら』。作者である中川李枝子さんによると、ぐりとぐらという名前の由来はフランスの絵本『プフとノワロー』で、こちらは黒ネコと白ネコの冒険物語だそうです。ねずみと猫の切り離せない関係をこんなところにも見たようで、おもしろいなと一人苦笑いしてしまいました。
▼ロシアの昔話『おおきなかぶ』では、猫がねずみを呼んできて、ねずみがねこをひっぱって…うんとこしょ どっこいしょ やっと、かぶは ぬけました。≠アこでは、猫とねずみは協力者。絵には、しっぽ同士を絡ませ、最後尾のねずみが全身に力を込めて引っ張る様子が描かれています。ネズミの加入でかぶが抜けるのですから、その力は、なかなかどうして、侮れません。
▼小さなねずみから、多くを学びたい私たち。お互いの関係≠改めて見直すこと、協力すること、全力を尽くすこと、などなど…目標を定めて、子どもとともに進んでいきましょう。
<聖書のことば> 旧約聖書 エレミヤ書30章19節
―主のことば― わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。
■ 「いる いる サンタクロース」 |
Date: 2019-12-03 (Tue) |
児童文学研究者の松岡享子(きょうこ)氏の著書『サンタクロースの部屋 〜子どもと本をめぐって〜』(こぐま社・1978年)の同題の一文に触発されて、歌を作ってみました。
もうすぐクリスマス・イブ ぼくのところにも たずねてほしいな サンタクロース
ぼくがほしいもの かあさんだけには 「みんなにないしょ」と そっとおしえた
サンタクロースは いる! ぜったい ぜったい いる! 赤いぼうし 白いおひげ 大きなふくろ
ほかほかミルクと ビスケットおいて ぼくはまちながら すやすやねむる
サンタクロースを しんじてたぼくも それがだれなのか わかってしまったのです
おおきくなって おとなになって わが子とむかえる クリスマス・イブ
サンタクロースは いる! ぜったい ぜったい いる! 赤いぼうし 白いおひげ 大きなふくろ
もうすぐクリスマス・イブ しずかな夜ふけに ふたりはしんけんに そうだんしてる
ことしはあの子の リクエストはなに? 「おしえてくれたわ」 WOO・・・・
サンタクロースは いる! ぜったい ぜったい いる! 赤いぼうし 白いおひげ 大きなふくろ
サンタクロースがいた こころのへやには いちばんだいじな おかたがいます
「いる いる サンタクロース」(Y.Nanba 2019)
氏の文章をここでご紹介できなくて残念です。拙い歌詞ですが、その要旨を汲み取っていただけたら幸いです。(一部、わが家のことも盛り込んでみました!)
「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間をつくりあげている。…のちに、いちばん崇高なものを宿すかもしれぬ心の場所が、実は幼い日にサンタクロースを住まわせることによってつくられるのだ。」(松岡享子)
<聖書のことば> ヨハネの福音書 1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
■ 「無償」に思う |
Date: 2019-11-01 (Fri) |
▼マザー・テレサの逸話のひとつに、次のようなことがあります。
ある研修会で、ほかの修道会のシスターが、マザーに言いました。
「マザー・テレサ、あなたはものを無償(ただ)で与えて、貧しい人たちを甘やかしています。彼らは人間の尊厳を失っています」
みんなが押し黙ったところで、マザーは静かに言います。
「神さまご自身ほど甘やかしているかたはいませんよ。わたしたちに無償で与えてくださる、すばらしい贈り物を見てごらんなさい。…もし、神さまが、わたしたちの視力にお金をとることになったとしたら、どうなりますか。わたしたちは絶えず酸素を吸って生きていますが、お金など払ってはいません。もし神さまが、『おまえたちが四時間働くなら、日光を二時間分だけやろう』と言ったならどうしますか。そうなったら、この中で、いったい何人が生き残れるでしょう。…お金持ちを甘やかしている修道会はたくさんあります。貧しい人びとを甘やかす修道会がひとつぐらいあってもいいでしょう。」(『新装版 マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈り』主婦の友社 より)
▼10月からスタートした幼児教育・保育の無償化。制度としての課題はあるものの、恩恵を受ける対象にとっては、ありがたいことですね。しかし考えてみると、子どもが受けるものは、みな無償です。一般的には、提供者は親でしょう。親の愛は無償であり、受ける側に代価の支払いは不要です。親御さんからお預かりして保育する私たち保育園の基本姿勢に「無償性」があることを、改めて思わされます。無償は時に厳しい目にさらされます。保育は「質」が問われます。
<聖書のことば> ヨハネの手紙第一 3章1節
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。
■ 木を植える、木に学ぶ |
Date: 2019-10-02 (Wed) |
▼最近、事務室から外に出てみると、あの香りに似た匂いがしたようで、あれ、と立ち止まったのでした。気のせいか、とまた歩き出し…。かつて愛恵の園庭には、小さな金木犀(きんもくせい)の株があって、この時期になると甘い香りをほのかに漂わせ、心和ませてくれていました。その時感じたのは、金木犀の香りです。もしかしたら、ご近所で植わっているかもしれません。
▼愛恵保育園が創立50周年を迎え、一つの大きな節目を喜びと感謝をもって過ごしています。先月6日には、記念礼拝を挙行し、現在運営に携わる者たちが一堂に会して、神様に感謝をささげて、創設のスピリットともいえる、(いただいた、受けた)愛をかたちにしていく≠アとを改めて心に刻みました。
▼「主(=神様)が私に良くしてくださったすべてに対し 私は主に何と応えたらよいのでしょう。」という聖書の言葉* に倣い、職員たちは、このときを愛恵の職員として保育に従事できることを感謝して、記念の植樹を計画しています。せっかく植えるなら、実が生る木がいいな、とか、葉っぱで遊べる木がほしいよ、とか、思い思いにリクエストが飛び交っています。何にするか、そろそろ決めなければなりません。これからの時間を一緒に刻んでいくのですから、感謝の思いを未来に向けて、職員もまた育っていきたい、と願います。
▼園庭の木といえば、通用門の脇に桜があります。創設当初からあの位置です。動じずに立ち続けている…真理<truth>は樹<tree>から派生した言葉だと、どこかで読んだのを思い出しました。小さな庭ですが、身近な場所に木がある、そこから学ぶ―そんな環境を大切にしたいと思います。その桜、先頃の台風で、弱くなっていたか、大人の腕の太さくらいの枝が折れていました。痛みや労りを感じる者でありたい、とも思います。
<聖書のことば>
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書 8章32節)
本文中の* 旧約聖書 詩篇116編12節
■ お弁当の日 〜かみさま、きょうも おいしいしょくじを ありがとう〜 |
Date: 2019-08-30 (Fri) |
▼独特の世界観で心に響く歌を届けてくれる夫婦デュオ、ハンバート ハンバート。彼らの作品に「おべんとう」という、実に味わい深い楽曲があります。
今日はうちの子どもらが バスに乗るというので
朝も早くから起きて はりきって作ったのよ
他の子たちはみんな ハンバーガー屋さんに行き
僕は一人バスの中 つめたいおべんとう食べる
さめても、おいしい さめても、おいしい
さめても、おいしい さめても、おいしい 作詞:村井健也 /作曲:村井健也・佐藤良成
お弁当を作る「母」(…作ったのよ≠ゥら推測)、食べる「僕」。バスの中という空間で、通い合う思い。一緒だったのは友だち? 何人いようが「僕」は「僕」。冷たいお弁当が「さめても、おいしい」のは、そこに母親とその子との間に温かく、強い関係が築かれているからなのでしょう(と、しみじみしちゃいます。ステキな親子ですね…)。
▼園の、月に一度の「お弁当の日」。傷みやすい夏場の7月から9月はありません。作る立場の方(大抵はお母さん?)はホッとしていらっしゃるでしょうか。10月の再開まであと1か月。お子さんとの心の通い合いが、一層温かく、強くなればいいですね。それこそ、「お弁当の日」のための、何よりの準備ですね(と、専ら食べるだけで、作ら(れ)ぬ人≠フ勝手な一言)。
▼ところで、その10月からは3〜5歳児の幼児教育・保育の無償化がスタートします。これに伴い、給食費徴収の内容が変わり、先ごろ当園の実施概要をご案内したところです。これを機会に、保育における食事の意味や食育の大切さを改めて確認し、これからも子どもたちの育ちを願いながら、心をこめて提供していきたいと思います。神様への感謝、祈りと共に。
<聖書のことば>
私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い…(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2章7、8節)
父よ、…私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。(イエスさまのおいのり ルカの福音書 11章3節)
■ 安心をつくるもの |
Date: 2019-08-01 (Thu) |
▼絵本『ぐりとぐら』シリーズで知られる児童文学作家の中川李枝子さんは、講演で「私が好きな保育園/幼稚園の3つの条件」について話されるのだそうです。
1つめは「給食がないこと」。幼い子どもは個人差が大きく、食事の好みや分量もそれぞれです。だからお母さんにお弁当を作ってほしい。それになによりも、子どもはお母さんのお弁当が大好きです。
2つめは「送迎バスがないこと」。親子で仲よく手をつないで登園してもらいたい。
そして3つめが「制服がないこと」。子どもの服は、親のセンスで選んでほしいですね。
制服については、私の体験も関係しています。
私は5歳のとき、東京へ引っ越して、幼稚園に入園したのは、国民学校に入る前年でした。
入園式の日、襟ぐりと袖にゴムの入ったブルーグレイの上っ張りを着せられて幼稚園に行くと、どの子も同じ服を着ているではありませんか。ビックリしました。「母が私を見失うだろう」と不安になったのを、今も忘れません。ゆえに幼い子の制服はきらいです。(『ママ、もっと自信をもって』(日経BP社)より)
▼母が私を見失うだろう・・・制服の是非は置いておいて(給食や送迎のことも考えさせられます)、幼い心に芽生えたその不安を思うと切なくなります。母親の困る様子を想像できて、思いやることができた5歳の頃の中川さんの感性は凄いと思います。どんな親も「わが子を決して見失わない、どんな服を着ようが、何も着ていまいが」とはとても言い切れません。むしろ、大事なことは、子どもの心に「(母は)いつだって見つけてくれる」という安心・確信があることではないでしょうか。母と子の信頼関係が、自律した、強い心を育みますね。
<聖書のことば>
私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2章7〜8節)
■ 「おとうさん」「おかあさん」 |
Date: 2019-07-05 (Fri) |
▼「わたしのおかあさんはね、○○(名)っていうんだよ。おとうさんは、○○(名)だよ。」
お父さんやお母さんの名前を覚えたお友だちが、そうやって教えてくれる時があります。「家族を大切にしようとする気持ち」の育ち(保育所保育指針)を垣間見るひとコマです。
「ノンちゃんの手帳に、ある日、お母さんが自分の名を書いてみせてくれたとき、ノンちゃんは、なんともいえないふしぎな気もちにうたれ、その字を見つめていました。……それは、ノンちゃんにとって大きな発見でした。そのことがあって以来、それまで一つだったおかあさんとノンちゃんとのあいだに、すきまができました。そのすきまはノンちゃんにさまざまなことを感じさせ、またそのすきまのため、ノンちゃんはいっそうおかあさんをたいせつに思うようになったといっていいでしょう。」(石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』)
▼「おかあさん」と呼んでいる女の人には、実は○○○○という姓名があることに気づいたときに、できたすきま(隙間)。そのすきまが、ノンちゃんにとってのおかあさんを一層親密にした、と。子どもの心の成長を、作者はあたたかく見守ります。
子どもにとって、父や母は、その名が門札に掲げられている人のことではない。…子どもにとってのほんとうの父母の名は、「おとうさん・おかあさん」でしかない。(奥村一郎・神父)
▼「おとうさん」「おかあさん」は、誰にもあてはまる普通名詞であるが、わが子にとっては、はるかに固有である、と奥村神父。確かにそうですね。わが子の呼びかけに「なあに?」と答えることができるのは、世界でただ一人です。親と子はひとつなのですね。そこにある心の通い合いを、今、大事にしましょう。そこから、家族を大切に思う気持ちは育っていきます。
<聖書のことば>
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(旧約聖書 出エジプト記20章12節)
■ 生まれるのに時があり、 |
Date: 2019-06-03 (Mon) |
▼九州のある高級時計店が、永らく流している広告コピーがあります。
Happy Birth Time
年に一度、誕生日が来るように、
一日に一度、誕生時間が来ます。
あなたは何時何分に
この世に生まれましたか?
あれは寒い夜中だった…。
夏の熱い昼下がりだった…。
そのときの母のぬくもりを、
父のまなざしを、
想像してみませんか?
さあ、もうすぐあなたが生まれた時間ですよ。
お誕生時間、おめでとう。
(「宝石時計 長野」 コピーライター:松田正志) 出典:『毎日読みたい365日の広告コピー』(ライツ社)
▼保育園では誕生月を、お家では誕生日をお祝いしますね。日ごとに巡る誕生時間、確かにそれもまた喜ばしい祝いの時です。そのときのぬくもりやまなざしを、今に至るまでわが子に注いでいることでしょう。強く育て。たくましく生きよ。託す思いは、時を刻んでいきます。
<聖書のことば>
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。… 旧約聖書 伝道者の書 3章1、2節
■ 令和へ 〜手探りしながら |
Date: 2019-05-10 (Fri) |
▼今年の大型連休は、5月1日が新天皇即位の日(祝日)と定められことにより、その前後も休日となりました。保育園もこれに合わせて9日間連続で休園させていただきました。ご家庭では、連続のお休みではなかったかもしれませんね。それでも、普段とは違って、遠出されたり、実家で過ごされたでしょうか。親子での時間が多くあったことが、子ども
たちにとって心の満足になっていたら幸いです(明けた週は、振り子の揺れ戻しのようにドッと疲れが押し寄せて来るのでは…?!)。
▼元号が改まり、新たな時代の幕開けに期待感が膨らんでいます。「令和(れいわ)」−万葉集から採られたこの元号は、平成の印象を引き継いで、その響きが何かしら優美な感じをもたらします。一方で、「令」は命令≠連想させ、世界の動きに伴う外交や国の在り方への心配と重なって、むしろ危うさを感じる向きもあると聞きます。この国の歴史的な大きな変化が、良い意味でのリセット、生活・暮らしに好機となることを願いながらも、考えなければならない大事なことが多くあるということも心しなければなりません。
▼聖書には、
神は一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません(新約聖書 使途の働き17章)
と記されていました。改元を機に、聖書の言う神を求める≠ネど、ほとんどないことかもしれません。しかし、思えば相変わらず先が見えない、暗い世の中です。まさに「手探り」。その最たるものが子育てでしょう。子ども一人ひとりのいのちのこと、育ちのこと、泣いたり笑ったりする日々を思うと、神さまが「遠く離れてはおられ」ないことがうなずけるのです。
手探りで求めながらも、確かなものに至る――令和が、そんな時代になることを願います。
■ 「いけん!!」(ダメだよ!!) |
Date: 2019-03-01 (Fri) |
先日の合同礼拝(月に一度、全園児が遊戯室に集まって礼拝をし、聖書のお話を聞きます)で、イエス様に似た人=羊飼いのおじさんのお話を、紙芝居の絵を使ってしてみました。
「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、
その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、
『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。 (新約聖書 ルカの福音書15章4〜6節)
中の一枚に、一匹いないことに気づいたおじさんの、困った様子が描かれています。
(セリフ)「あれ?」羊飼いは数えるのをやめました。一匹たりません。
そのくだりで、言葉を添えました。「おじさんは、一匹いないってわかったけれど、どうしたかな?『いいや、九十九匹もいるんだから。探すのも面倒くさいし、帰ろう』って、言ったかな?」
そんな問いかけに、間髪を入れず、おともだちの大きな声が返ってきました。「いけん!!」
その一声に勢いをもらって、お話しが(ストーリーのとおりなのですが)展開していきました。おじさんは、あたりを捜し回り、とうとう画面を飛び出して(演出です)遠くまでたずね歩いて、迷子の羊を見つけます。(その羊は、十字架の横の窓の、カーテンの陰にいました。)
「いけん!!」…子どもの内に芽生え、育ち行く、優しくも力強い思い。羊飼いのおじさん=イエス様の心を映し出す幼な子の姿に、感動しています。
■ 子ども時代のあなたから |
Date: 2019-02-01 (Fri) |
大人になって、老人になってあなたの人生を支えるのは、子ども時代のあなたです
その笑顔に和まされ、その泣き声に気持ちを汲み取ろうと、つい近寄ってみたりする・・・園児はみんな愛(いと)おしく、関わりを重ねるうちにともに過ごす日々の豊かさを、幾分味わえるようになりました。その豊かさは、子どもに与える以上に、子どもからいただくものが多いということでしょう。「励まされ 癒され 諭され 教えられ」――この支えられ感≠ニも表現できるうなずきは、子どもに関わる仕事をさせていただいている者の特権です。
冒頭の一文は、児童文学作家で、『熊のプーさん』の翻訳でも知られる石井桃子さんが、生前大切にしていたことばだそうです。いい本を、いい文化を子どもたちに、との熱い思いをもって創作や図書の普及に力を尽くされたご自身の、魂のこもったメッセージとしても響いてきます。
子どもたちにとっての「子ども時代」は、まさに「今、この時」です。彼らが大人になった時に彼ら自身を支える「子ども時代」を、果たして今作ってやっているか、と問われます。子どもたちの今の経験(歌やお話、絵本、活動、友だち、先生…)が、後の日のための大切な宝になることを願いながら、一人一人をしっかりと受け止めて、心をかけ、手をかけていきたいと思います。
ところで、石井さんのことばに、ふと、自分もそうなのかなあ、と思います。折々に抱く支えられ感≠ヘ、目の前の子どもとの関わりから連れ出された遠い昔の自分、長らく心の奥にしまわれていた、たくさんの経験から発信されているのかもしれません。今、何とか頑張れるのは、「子ども時代の自分」のおかげでは・・・子どもの頃から守られていたとは、ありがたいことです。
<聖書のことば>
私は生まれたときからあなた(=神様)に抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。(旧約聖書 詩 篇 71篇6節)
*『キリスト教保育』2月号 吉村真理子氏の論説「わからなくても大丈夫」を参考にさせていただきました。
■ その子がかわいいのを見て 〜亥年に想う〜 |
Date: 2019-01-04 (Fri) |
常日頃の感謝とともに、新年のごあいさつを申し上げます。
親しい方を亡くされたご家庭には天来のお慰めを祈りつつ、新たな年の祝福をお祈りいたします。
* * *
▼今年は十二支の最後「亥(い=猪・イノシシ)」。イノシシといえば、その巨体が一直線に突進するイメージが強いですね。目標に向かってがむしゃらに進むことを「猪突猛進(ちょとつもうしん)」といいますね。スポーツなら、すぐにラグビーが思い浮かびます。
▼そのような勇ましい、勢いを感じさせるイノシシですが、幼少期には「うり坊」などと言われ、親しまれます。シマウリに似た縞模様の体毛が生えていることから、そう呼ばれるようです。人間も、そんな一面があります。どんな大人も子どもの頃は、かわいかったんだけどね〜=c。
▼かつて、古代エジプトは、イスラエル民族を奴隷として支配していました。エジプト王は、彼らが次第に増えていくことに脅威を感じると、重労働を課し、生まれる子が男ならば殺せと、残虐な人口抑制政策を敷きます。そのような中で、後にイスラエルを解放し出国させるリーダー、モーセが生まれます。両親は、王の命令を恐れず、モーセを隠します。「その子がかわいいのを見」たからでした。幼な子のかわいさ≠ェ、時に重大な決断や大胆な行動の原動力となります。
▼世の中の無謀な突進を止め、軌道修正する力は、乳幼児たちの「かわいさ」にありはしないか・・・そんなことを考える年の始めです。お互いに、子どもの「かわいさ」を見つめましょう。
<聖書のことば> 旧約聖書 出エジプト記 1章7〜2章11節(抜粋)
イスラエルの子らは多くの子を生んで、群れ広がり、増えて非常に強くなった。こうしてその地は彼らで満ちた。
やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」
そこで、彼らを重い労役で苦しめようと、彼らの上に役務の監督を任命した。また、ファラオのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。
それでエジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。
また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに命じた。…彼は言った。「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」…
ファラオは自分のすべての民に次のように命じた。「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」
さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。
しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。
その子の姉は、その子がどうなるかと思って、離れたところに立っていた。
すると、ファラオの娘が水浴びをしようとナイルに下りて来た。侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みの中にそのかごがあるのを見つけ、召使いの女を遣わして取って来させた。
それを開けて、見ると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」
その子の姉はファラオの娘に言った。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」
ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。
ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。
こうして日がたち、モーセは大人になった。…
新約聖書 ヘブル人への手紙 11章23節
信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。
■ 平和を… 〜クリスマスを静かに味わう〜 |
Date: 2018-12-01 (Sat) |
アメリカ・カリフォルニア州の北部と南部で発生した山火事は、未曽有の大惨事となりました。死者は88名、今なお行方不明者があります。北部の焼失した面積は東京23区に相当するといいます。
もしも森林火災に巻き込まれたら、たった一つの事しか考えないでしょう。逃げることです。
こんな話を読んだことがあります。・・・かつて一人の探検家が川辺に立って、反対側の岸辺に迫ってくる森林の火災を見ていました。すると、大きな炎の前をキツネ、ウサギ、オオカミ、シカ、クマ、ライオン、リス、その後ろから数人の男女が逃げ出してきました。そして、次々に川に飛び込んで探検家のいる対岸へ泳いで渡りました。全部が安全な川向うに着き、振り返って反対側の森が炎に包まれていくのを見ました。その時、野獣も人間も、共通の危険に直面して、お互いが敵対し合う関係であることを忘れていたのでした・・・
すべてに共通する恐れや不安の前に、違いを忘れ、皆が危機を乗り越えてともに生きようとする姿は未来に向かう希望です。でも、国や民族の間で争いが絶えない人の世の現状、平和を願いながらも、それを造れない人の哀(かな)しさは、その希望を見えなくしています。そんな中で、今年も迎えるクリスマス。暗く闇の深い人の世界に、神は御子(みこ)キリストを一人の人としてお与えくださいました。
「その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(新約聖書 マタイの福音書 1章21節)
共通の危機、すなわち「罪」から来る死と滅びから「お救いになる」お方(=イエス・キリスト)に心を向けること。楽しく過ごすクリスマスにあって、このことも子どもたちとともに静かに味わっていただきたいと思います。そして、ご家庭に、職場に、平安が訪れますようにと祈ります。
■ 「いとしい」と「こいしい」 |
Date: 2018-11-01 (Thu) |
先頃亡くなられた女優の樹木希林さん出演の話題作『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』。エッセイストの森下典子さんが約25年にわたり通った茶道教室での日々をつづった人気エッセイが原作の映画です。タイトルの「日日是好日」は禅語のひとつで、文字通り毎日がサイコー≠ニいう意味のようです。そこから、ポジティブに生きようというメッセージにつながるのでしょうね。
森下さんのエッセイ集に素敵なカバーとタイトルのものを見つけました(『いとしいたべもの』『こいしいたべもの』ともに文春文庫)。手作りだけではなく、よく知られた市販のものまで、食べ物にまつわる数々のエピソードが、森下さん自身が描いたイラストとともに紹介されていて、心が豊かになります(同時に、お腹も鳴ってきます)。お母さんにお勧めです。
こちらのタイトルもいいですね。「いとしい」と、「こいしい」。子育てする日々の苦労を苦労としてだけ思っていると、わが子に対する本当の思いをつい忘れがちになりますね。おいしいものを(こっそり?)食べながら、わが子をいとしく、こいしく思ってみる…そんな日があってもいいですよね。
<「日々」を励ます聖書の言葉>
明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(マタイ6:34)
ですから、私たちは落胆しません。たとえ、私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Uコリント 4:16)
ほむべきかな 主。日々 私たちの重荷を担われる方。この神こそ 私たちの救い。(詩 篇 68:19)
■ 勉と便!? |
Date: 2018-10-01 (Mon) |
愛恵のような、いわゆる認可保育所でなされる保育の内容について、その拠り所としているのは「保育所保育指針」(厚生労働省告示。以下「指針」)です。昨年3月の改訂で、特に注目すべき点は、幼児教育、就学に向けた育ちの保証に重点が置かれていることです。「幼児教育を行う施設」としての保育所の役割が一層明確になったわけです。その顕著な表れが、「生涯にわたる生きる力の基礎を培うため」の≪育みたい資質・能力≫としての三つの柱と、≪幼児期までに育ってほしい姿≫としての10項目が明記されたことです。保育所では、挙げられた指標を参考にしながら、子どもたち一人一人の育ちを捉え、就学へと備えていきます。三つの柱は、次のとおりです。
(ア)豊かな体験を通じて、感じたり、気付いたり、分かったり、できるようになったりする「知識及び技能の基礎」
(イ)気付いたことや、できるようになったことなどを使い、考えたり、試したり、工夫したり、表現したりする「思考力、判断力、表現力等の基礎」
(ウ)心情、意欲、態度が育つ中で、よりよい生活を営もうとする「学びに向かう力、人間性等」
専門家によると、これらはその後続く学校教育でも問われ、数年後の大学入試は、こうした資質や能力をはかる内容へと変わってくるのだそうです。わが子の将来を考える時、知っておいていい、ご家庭でも上記のような力がつくような関わりを心がけたり、学習環境に気を配ることができたらもっといいでしょうね。(お子さんが大きくなるのは、あっという間です!)
「勉強と便(ウンチ)は人に言われてするものではない」・・・こんな刺激的な言葉を、最近聞きました。主体性が育まれることを願うときに、その子その子の心、気持ちを大切にして、何を、どうすれば、という具体的な方向性を指針から学び、園全体で実践していきたいと思います。
<聖書のことば>
「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」(新約聖書 コリント人への手紙第2 9章7節)
「いつも喜んでいなさい。」(同 Tテサロニケ 5章16節)