戦後の慈眼寺

 昭和20年4月16日、先代慈眼寺第廿五世定全和尚遷化により、昭和20年5月20日現住芳一当山第廿六住職を拝命。

  昭和29年10月30日、済生利民の教旨に基づき宗教情操教育を目標とし、境内に瀬田幼稚園を開設する事とし、規則認証同年10月20日附、 4、5才児80名定員2学級による、学校教育法第4の規定に基づく設置認可となった。

 「御大典記念玉川全円耕地整理事業」が、激しい戦時下に一時中断の時期を辿ったが、 昭和39年4月、漸く終焉し、折から道路の舗装化が進み、当山周辺も著しく民家がたち並び、都市化が進むにつれ、庫裡の損耗が目だち、 集議の末、二階建客殿併用庫裡の改築を計画、稲葉建設施工により完成する。

 昭和47年7月、先代定全和尚より多年に亘る念願として継承された、本堂再建計画が議せられる事となり、瀟洒なたたずまいとして親しまれ、凡そ150年以上風雪に堪えたと想われる木造鍍板葺本堂を改体し、総本瓦葺半地下鉄筋構造を相定したが、 時遇々昭和48年のオイルショック により、資材の高騰、不足に見舞われ、急遽設計変更となり、宝形造銅板葺半地下鉄筋構造に改め、本堂33坪、半地下1階 講堂36坪、社寺建築松井建設施工により着工する事となった。

 昭和50年5月には無魔竣工完成、同年10月19日、山容新たに落慶供養が営まれたのである。時恰も宗祖弘法大師御生誕千二百年の佳年に当たると共に、厳しい財政下、有縁担信徒の勧募浄財は、大いに慈雨の如くうるおい、御本尊荘厳の美は一層重厚な伽藍となし得て、山容を飾るに相応わしい結実となった。

 またこの時、地中より出土した板碑の一部より、貞治4年9月と記された文字が、 世田谷区考古調査専門員により証明され、 当山開創50年前後の時代に相当し、寺史を裏づける証左となった事も新たな顕彰と思われる。ここに於て、昭和53年4月当山開山歴代供養五輪塔を建立し、歴代山主墓碑銘を刻し納めた次第である。

 昭和54年7月、『新編武蔵風土記稿』慈眼寺の項に 「釈迦堂本堂ニ向テ左ニアリ、二問ニ二問半、本尊木像ニテ長 一尺アマリ」と所載され、今日絶えて久しくその片鱗もない姿に鑑み、重層釈迦塔を発願建立。大仏師・松久宗琳師彫刀、 釈迦、文殊、普賢三尊像を開眼奉安し、表額「釈迦牟尼」を、真言宗長者芙蓉良順大僧正猊下に御染筆戴き、抜苦與楽六根清浄を祈念し、永久の聖域として決定した処である。
御本尊 大日如来像

御本尊 大日如来像


弘法大師一千年忌報恩供養塔 他

弘法大師一千年忌報恩供養塔(右)
法篋印塔(左)と六地蔵尊(前)


五重塔型燈籠

平成9年(1997年)
瀬田大塚園納「五重塔型燈籠」

以降・・・  
平成3年10月

本堂屋根改修工事 落慶

平成4年9月 慈眼寺富士見霊苑 竣成
平成7年5月 当山境内の瀬田幼稚園 全面新築 、落成記念執行
平成9年10月 瀬田大塚園より「五重塔型燈籠」納入